愚行録 2017.3.9(木) ティーチ・イン覚書

本編上映後 、司会者からの事前準備されたインタビュー形式+観客との質疑応答

参加者:石川 慶監督、田中 光子役・女優 満島ひかりさん、奥浜 レイラさん(司会進行)

※会話の流れ通り復元したわけではなく、発言内容を思い出せる範囲で、項目ごとにまとめて組み立て直しました。特にメモを取っていたわけではなく、貧弱な記憶力勝負なので、一語一句同じ表現でもなければ、内容に抜けもあります。

※細かい描写やストーリーのネタバレになることが含まれているので、鑑賞後に読むこと推奨。

 

◇監督と満島さんの互いの印象◇

満島ひかりさん(以下満島 敬称略)「石川監督は、たとえどんなに些細なことを質問しても、毎回とても詳しく答えてくれる。あまりに丁寧に答えてくれるので、途中から内容もそこそこに、こっそり監督の答える様子をずっと見ていたくらい。」

石川 慶監督(以下監督)  「長編初監督作品で、満島さんとご一緒できて光栄だった。まさか、質問の答えをそっちのけで、観察されているとは思わなかった。」

 

◇手の描写◇

※わが子への育児放棄の罪で拘留中の光子の体を、たくさんの男の手が這う不気味なシーンについて

監督「このシーンの手は、 実際に文応の内部生の学生を演じたのと同一人物でというこだわりがあったので、無理を言ってキャストを招集して撮影した。皆映り込まないように無理な体勢で隠れたりしながら、手を這わせて撮った。」

満島「どんなシーンなのか、撮られている方は全然想像がつかないまま撮られていた。日本の男性はあまり女性をうまく愛したことがないのか、みんな手の這わせ方が固くてぎこちなかった。じんわりと触っていくべきところをサラッと触るので、あーっもうっ!と、(しびれを切らした満島さん自身が)手を掴んでこういう感じでやってみてと直々に指導をしたりした。その際、監督も手本を示してくれたのだが、その手つきがとてもうまかったので、この監督は頼もしいと、信頼関係が生まれるきっかけになった。」

※刑務所の面会のシーンで、田中 光子が、 ガラス越しに兄の顔をなでるシーンについて

監督「満島さんの手を見たとき、とても綺麗な手をしていると思ったので、手を撮りたいと思った。」

 

◇監督とポーランド

ポーランド人カメラマンのピオトル・ニエミイスキ氏の起用について  

満島「ヨーロッパのカメラマンのカメラワークには、女性的な印象があり、自分の好みと合っていたので、信頼できた。カメラのポジションや被写体との距離感、動きのあるカメラワークのときのカメラの移動速度などが、日本人のスタッフとかなり違って、お国柄が出るんだなと感じた。」

※監督がポーランドで映画を学んだ経緯について

監督「ずいぶん前のことなので、あまり思い出せない。

(以下、満島さんのアシストを経て出てきたエピソード)映画を専門とする前は、物理学を専攻し、超電導の研究をしており、実験のため、研究室で1週間籠りきりになって作業することもあり、人と接する機会がないこともあり、このままではいけないと危機感を感じていたと思う。」

 

◇田中 光子の長い独白の場面について◇

満島「演じている側は、正解がわからなくて、自分はうまくできているのだろうかと思っていたし、全然掴めていなかった。演技派なところを見せてやろうとか魂胆があるわけでもなく、ただ、いい演技をしたいという一心で、感情の動くままに演じた。実際、光子の人物像は、もっとわかりやすく狂った大げさな感じにもできたし、やりようは他にもいろいろあったが、監督との話し合いを経て、小さい男の子が、今日はどんなことがあったの?と聞かれて、「あのね、こんなことがあってね、あんなところにいってね…」と報告してくるときのような、ストンと肩の力を抜いた淡々とした語り口調に落ち着いた。ただ、撮っている最中は掴めなくて、途中で不安になって楽な方に逃げてしまったなと自分で思うところがあって、撮り終わった後に、ああ、もっとできたはずと、納得しきれていない。

とにかくやっている間は胸がただただ苦しくて仕方なくて、カットがかかった後、ぐったりへばっていたら、同じシーンで共演していた平田 満さんに、『満島、苦しいだろう、満島、俺も昔そういう役をやったときは、苦しかったんだ』と励まされた。

そうやって、感覚的に感情を前面に出したものを、監督がうまく拾って形にしてくれたのだと思う。 (ちなみに満島さんは、インフルエンザの病み上がりで、愚行録の撮影に臨んだという。) 」

監督「この映画の核となるシーンが撮れたというか、光子という人物が掴めたという確かな手応えを感じた。このシーンを起点に、他の場面のカメラワークや全体のトーンや雰囲気が決まっていったので、演者の作り出した役の人物像に影響を受け、映画の作り方に反映されるという体験が、今までになくてよかった。

このシーンに関しては、あまり論理的に説明している感が出ないように、セリフまわしに工夫を凝らした。接続詞を削ったり、語尾を言い切らない感じにして、一貫性をなくしたことで、語り手は光子一人なはずなのに、視点が自分目線になったり、俯瞰になったり、主観と客観を行ったり来たりする。これによって、本当に光子の主張が真実なのか、光子の母やほかの人物の証言の方が、実は正しいのではないかと、疑いの余地が出てくる。

本番前は何度も話し合いを重ねるけれど、いざ本番を撮り出すと、それ以上はディスカッションせず、撮ってしまう。このシーンは結局2テイクで撮った。」

 

◇田中 光子が耳を触ることの意味◇

監督「耳を触るしぐさには、一般的にもセクシュアルな意味合いがあるので、そこは意識して取り入れたところがある。」

満島「耳を触る演出は、監督からの指示ではあったが、『耳を触ってもいいし、触らなくてもいいし、触っても…とりあえずやってみて』という煮え切らない言い方だったので、『やるの?やらないの?どっちなの?』と戸惑った。この場面に限らず、監督の演出は、具体的に指示するというよりは、大まかな流れを説明されて、『はい、じゃああとはやってみて』と任されるエチュード方式なことも結構多かった。」

 

◇満島さんと妻夫木 聡さんの共演について◇

満島「妻夫木さんとは、いろいろな作品で何度も共演経験があり、ときにはけんかのように激しく意見をぶつけ合うこともあった仲ではあるものの、今回の現場では、演技の内容に関しては、まったく話さなかった。普段から人柄も良く温和でさわやかで、一般的にも好青年のイメージがある方だけど、絶対にとんでもなく真っ黒な闇を心に抱えている人だと思っている。今年の『怒り』でのアカデミー助演男優賞といい、妻夫木さんは、数々の賞を受賞されているが、以前、「賞を戴けるのは、自分の力というよりは、相手役が素晴らしかったおかげだ」と言っていた。(その言葉を借りると、)今回、もし、光子をよかったと思っていただけたら、それは、妻夫木さんのおかげだと思うし、妻夫木さんも同じように思っていただけてたらと思う。」

 

◇田向家と宮村の店に共通してリースが飾られていたことの意味◇

監督「よく聞かれるポイントだが、(明示的な意味合いがあるというよりは)メタファーとして使っている。このリースに限らず、例えば、光子の、大学入学を機に、『底辺の生活から抜け出すためなら、できることは何でもするつもりだ』といった発言も、(対極の立場にいるはずの)田向浩樹の貪欲さと通じるところがあったりと、実はさりげなく対になってリンクしているような要素がほかにもある。

実は、当初、(宮村が経営するカフェで使われている)ハーブからリースにつながる箇所があり、もう少しはっきりした流れがあったが、編集の過程で削ぎ落とされて、若干わかりにくくなったかもしれない。これくらいで勘弁してください。」

 

◇闇を抱えた役を演じる意義◇

満島「この役、あなたにぴったりだから!といってこの話をもってこられたとき、『え?人を殺しそうな人に見えているの?どういうイメージなの?』と内心複雑だった。役作りをするにあたり、資料として読んだ『累犯障害者』(山本 譲司著)の中の『売春をする知的障碍者』の章で、彼女の行いを止めようとするソーシャルワーカーに対して、『自分は愛されていると確かに実感できるのは、体を売っている瞬間だけなのに、どうしてそれをやめなきゃいけないの?』と言い放つくだりがあって、光子もきっとそういうところがある人なんだろうと思い、参考にした。こういう役もやりがいがあるけれど、明るいインド映画にも出たいと思っている。 」

 

以上

 

◇ ◇ ◇ ◇ ※以下ネタバレを含む感想

二度目を観ていて気づいたのは、輝かしいところだけしか見せられない関係の歪さだった。

田向浩樹は、学生時代に、バランスをとって本命の彼女との関係を良好に保つためという大義名分のもと、二股をかけていたが、その慣習は、結婚した現在もまだ続いていたと思われる。

彼の不倫相手として関係が続いていたであろう稲村には、臆せず見せていた愚かしい一面を、稲村は肯定していた。また、性別は違えど、会社の同期の渡辺も、同様だ。

しかし、浩樹は、妻である友季恵には、きっとその一面を見せていなかったのではないかと思う。

それはきっと、 友季恵も同じで、彼女の場合、夫どころか、ほとんどの人間に弱みを見せていなかったのではないかと思うと、より息苦しさを感じられた。

互いに誰から見ても非の打ちどころのない伴侶を手にした二人だが、心にやすらぎはあったのか。

宮村から夏原に乗り換えた思い出を語る尾形も、一見、夏原との過去の栄光を嬉々として話しているように見えたけれど、わたしには、なんとなく夏原よりも宮村に未練というか思い入れのようなものがあったのではないかと感じられた。

回想の中の学生時代の二人は、(少なくとも部外者のわたしには、)腹を割って話せるとてもしっくりくる組み合わせに見えていた。

己の愚かしさを曝け出すのは、情けなく醜い行為だが、ときには、それを赦してくれる人や場を、無性に求め、すがってしまうものなのかもしれない。

愚行録

愚行録

※あとがきに核心的ネタバレがあるので、鑑賞後読むこと推奨。

念願叶って、映画「愚行録」( http://gukoroku.jp/ ) を観てきた。

おもしろかった!!うわーこれはものっすごく好きな作品!!!

と興奮すると同時に、その気持ちを素直に無邪気に書くのが何だかとても憚れる。

おもしろがっていいのか、果たして、自分にはおもしろがる資格があるのかと、自問自答してしまう。

上映時間のほとんどが、殺人事件の被害者の関係者への聞き取り取材で構成されているのだが、人を変え、場所を変え、これでもかというくらい皆ペラペラと饒舌に喋り倒す。

被害者について語るつもりが、勢いあまって、自分自身の罪を告白にしているのに気づいているんだか、いないんだか。

皆一様に淡々と、悪びれる様子もなく、むしろ時に誇らしげに見える瞬間すらある。

誰かの心を踏みにじって、深く傷つけるような行為の数々も、年月の経過とともに、風化し、あいまいになり、都合の良いところだけが残った武勇伝になる。

たとえ、表面上は見えなくなった相手の傷が、本当はずっと癒えることなく残るとしても。

いったい、どれほどの人間が、自分が過去に犯した愚行の数々を全て現状保全したまま、抱えて生きていけるのだろうか。

◇ ◇ ◇ ◇

人柄もよく、誰もがうらやむ幸せを手にした田向夫婦にも、過去に埋もれた、法律では裁かれない醜悪な罪があった。

彼らのように、自分の成功のために、己の利益にならない人間に対して、容赦なく冷酷になれ、利用してしまえる姑息な側面を持っているが、それを決して周囲には簡単に悟られまいと上手に立ち回る”善人”というのは、世の中に大勢いる。

昔は、田向(旧姓:夏原)友季恵の級友・宮村淳子みたいに、その人を(内心僻みつつ)ただただ嫌悪していたけれど、最近は、人を踏み台にすることに何の躊躇いもなくなってしまった彼らの闇にも、思いを馳せてしまう。

田向浩樹は、結局、入社当初本当にやりたいと思っていた仕事はできていないし、 あれだけ女癖が悪かった男が、結婚してすぐにおとなしく家庭に収まるとは思えない(下種の勘繰り)。

あそこまでの愚行を犯して、誰もが羨む家庭を築いた田向浩樹・友季恵夫妻は、本当に幸せを感じていたのか。

もしかしたら、表向きは恵まれていても、田中光子が夢見ていた理想の家庭のように「砂の城」だったのかもしれない。

彼らが二度と話せない今となっては、それは誰もわからない。

それでも、第三者の証言だけで、勝手に語られてしまう恐怖があった。

記者田中に、田向夫妻の愚行を告発する彼らの”被害者”たちは、はっきり口に出しても出さなくても、二人は「命を奪われても当然だった」だと言いたげだ。 

被害者の粗を探すのは、殺人犯を擁護するのと同じで、故人を冒涜する行為だから、彼らの主張に賛同したくない。 

そんなつもりはさらさらないはずなのに、心のどこかで「自業自得」の四文字がチラついてしまった自分に嫌気がさした。

普段ニュースで知るような、自分と全く関係ない事件で、つい安全圏から批評家気取りになってしまう人は少なくないと思う。かくいう自分もそうだ。

当事者ではない第三者の神の視点からの断罪ほど、不躾な愚行はない。

そういう意味では、この文章も、立派な愚行録なのだろう。 

(映画の中の架空の事件についてとはいえど)

本当に己の愚行を背負う覚悟を持った者の口は、岩のように堅く閉ざされている。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

あとがき

すごくおもしろいけど、いろいろ考えこんでしまって筆が進まないパターンの映画が大好きなので、愚行録はとても好みだった。

▽ ここからは完全に余談 ▽  ※ネタバレ注意

個人的には、この映画のキーパーソンは、田中によって”粛清”を受ける宮村(臼田さん)と尾形孝之(中村さん)だと思っている。

彼らの過去に犯した愚行は、他の登場人物、特に田向夫妻のそれと比べたら、かなり軽度なことで、どこにでもいそうなタイプというか、観客は、この二人に一番感情移入できると思う。 

特に、尾形の「理想の夏原さん」にコロッと騙されているのにまったく気づいておらず、掌で転がされている感が、リアルというか、終始だらしなくてイラっとしてよかった。(※最大限褒めている)

しかし、夏原の狡猾さに気づきながら見て見ぬふりをしていた宮村と、夏原さんの裏の顔に気づけず翻弄されていた尾形は、無自覚に、間接的に夏原の片棒を担いでいたのも同じで、田中にとっては、一番憎むべき相手だったのだろう。

それはまるで、暗に、我々観客をも糾弾されているような気分だった。

話は変わって、満島ひかりさん演じる光子の体を包む手の描写が、本当に嫌悪感しかなくて、ゾクゾクしてしまう。最高に秀逸な映像化だと思った。

だけど、その意味を知ると、泣きそうを通り越して、吐きそうになる。

「愛した人と幸せな家庭を築く」という叶えられない夢が、余計にずっしり重く感じられた。

それから、惨劇の現場が一瞬映るのだが(そこまでえぐくない)、刺し方といい、犯行後のシャワーを浴びるシルエットといい、それとなく犯人がわかる見せ方が巧みでよかった。

犯人が分かった後、既出のシーンをもう一回なぞるんだけど、実は、初見で既にあれ?このシルエットっぽくないか?って人がいたんだけど、このシーンにいるわけないかってスルーしてたので、二回目にいると思ってみていると、あっ!やっぱりいたっ!!!ってなって楽しい。

役者全員最高だったけど、女優陣が特によかった。満島ひかりさんはもちろんのこと、市川由衣さんと松本まりかさんが好きなので、うれしい。

最後に、エンディングの音楽が最高なので、エンドロールが終わるまで、席を立たないでほしい。

Someone in the Crowd Could Take Me to LA LA LAND

※大胆なネタバレ注意。鑑賞後読むのを推奨。

巷で話題の「ラ・ラ・ランド」( http://gaga.ne.jp/lalaland/ ) を観てきた。

大渋滞のハイウェイで、大音量のクラクションと中指で軽蔑を交わし合って始まった、女優の卵とピアノ弾きのロマンスが、言葉なく眼差しの交差だけで、あっけなく幕を閉じる。

大声で泣きながら生まれた赤ん坊が、最期はそっと息を引き取るように、物事の終わりは、案外静かなものなのかもしれない。それが安らかであればあるほど。

終始出来すぎなファンタジー感は否めないが、人生のままならなさが詰まった、たまらなくいじらしい物語だった。

夢を追うすべての人へという謳い文句に、劇中歌の一つである、Someone In The Crowdという曲が一つの答えを提示していたように思う。

「パーティーにいって、(業界関係者)の誰かと知り合いになれれば、あわよくば、女優として、目指す世界に引き上げてもらえるかもしれないから、気合い入れていくぞ!」と若い女優の卵たちが、カラフルなドレスに身を包み、陽気に歌い踊る。ひたすら前向きに他力本願でハッピーなナンバー。

(彼女たちの言うとおり、そうやってチャンスを掴んだ女優も、少なからずいるのだろう。ただ、果たしてそれだけで、彼女らのキャリアはこの先ずっと安泰なのだろうか?という懸念はひとまず置いておいて…)

歌詞の一節に、ヒロイン・ミアの歌振りで、以下のようなパートがある。

Is someone in the crowd the only thing you really see?
Watching while the world keeps spinning ‘round?
Somewhere there’s a place where I find who I’m gonna be
A somewhere that’s just waiting to be found

 

本当にパーティーで業界人のお眼鏡に叶うことが全てなの?

こうしてる間にも世界は目まぐるしく回ってるというのに、ただボーッと眺めてていいの?

どこかに、わたしが将来何になるか見つけられる場所があって

わたしが気づくのを待ってるんじゃない?

 

ミアが必要としていたのは、彼女の手を引き、憧れの世界に直行させてくれる人物ではなかった。

夢を見失わないよう、傷ついた心を奮い立たせ、彼女自身すら気づいていない新しい可能性を見出し、踏み込む背中をそっと押してくれる人物だった。

それは、言うまでもなく、他ならぬセブだったのではないだろうか。

彼女にとってのsomeoneは、パーティーの客の中にはいない。

そのことに、彼女は初めから薄々気づいていた。 だから、パーティーなんて狭い場所ではなく、もっとだだっ広い雑踏の中から、ちゃんと彼を見つけ出すことができた。

もし、ミアがセブに勧められるがまま、舞台の脚本を書いて上演しなかったら、また、大作映画のオーディションの電話を、セブではなくどん底のミア自身が取っていたら…

セブもまた同様であった。

もし、 ミアがバンド活動に気乗りしないセブをその気にさせつつも、不本意だが安定した活動を続けることに疑問を投げかけなかったら…

それが、祝福すべき幸運であり、この物語最大の悲劇でもあるのだが。

悲しいかな、夢への障害を乗り越えられるよう自分を導いてくれる人物と、一生涯苦楽を共にする伴侶は、必ずしも一致しない。  

積み重なるすれ違いの末、ミアのオーディション合格(推定)とセブの所属するバンドツアーによって、二人の距離は、物理的にも精神的にも引き離される。

彼らのすごいところは、互いに自分と一緒にいてほしい旨を一旦は提案し合うものの、それが相手の夢をあきらめさせることを意味し、好ましくないと判断すると、すっとおとなしく引き下がるところ。

あの潔さが、非現実的で、一番美しいおとぎ話に感じられた。

◇ ◇ ◇ ◇

5年の月日が流れ、 女優として成功したミアが、ふらっと入ったジャズバー「セブズ」のステージには、 オーナーのセブが立っている。

彼が奏でる二人の思い出の曲 City of Stars を鍵に繰り広げられる、大団円なアナザーストーリーは、あのとき別の道を選んでいたら、二人の関係はずっと続いていたんじゃないかと思わせる瞬間ばかりが詰め込まれた夢物語。

走馬灯の中の二人は束の間、かつての恋人同士の頃に戻れた。

しかし、それは同時に、共有した時間が、永久に過去の思い出となってしまったことへの弔いのようでもある。

現実通り破局しようと、回想のように関係が現在に至るまで続いていようと、結局、どう転んでも、双方が完全に満足できる幸せにたどり着くのは不可能だということは、明らかだ。

出会うタイミングが違えば、二人は結ばれていた?

わたしは、そうは思えない。

しかし、相手の人生に最大の影響を与え、 たとえ離れ離れになったとしても、その幸せを願えるほど愛を注げる人物に、生涯で一度でも出会うことができる人は、世の中にいったいどれほどいるのだろうか?

最愛の人のおかげで築けた夢の道筋を歩いていけるなんて、 ただ単に自分の夢を叶えられること以上に、天文学的確率だ。

そもそも、思い返せば、二人の出会いと再会そして恋愛同様、彼らの各々の夢の実現も、数々の偶然が重なった末のことで、決して本人の尽力だけではどうにもならなかった。

もし、セブが、ジャズが嫌いなミアを連れ出したバーに、バンドの欠員を探す旧友が訪れていなかったら…

もし、ミアの舞台にプロデューサーが来ていなかったら…

自分の努力や選択だけでは、恋愛も夢もどうにもならないのである。

そんな残酷な現実の中、二人が結ばれないラストが、切なくも美しいのは、きっと彼らが、互いの意思を尊重し、人生を応援し合えたからだと思う。

だから、少なくとも、わたしは、あの結末に、悲恋の口惜しさは感じられず、むしろカタルシスに近い感覚になったのだろう。

しかし、あまりにも綺麗すぎる絵空事に、少しの虚しさを感じたのもの、また事実だ。

夢に浸るには、わたしには処方箋が足りなかったのかもしれない。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

p.s. 私の一番のお気に入りのシーンは、ミアとセブが、二人で観に行った映画の中に出てきた天文台に行く場面で、振り子の揺れる吹き抜けの廊下で、二人がダンスするシーンなんだけど、最高じゃないですか、あれ?

無限ループで観ていられる。

それから、プラネタリウムに移動し、満天の星空の下、二人がふわりと浮かび上がって、二人のシルエットだけが、星空の中ずっとダンスをするシーンがあるだけど、こちらは、少々ロマンスがありあまりすぎていて、いくら宇宙フリークのわたしでも、さすがになんだか無性に笑えてきてしまった。ないわー!

このポイントに共感できる人がいたら、わたしはその人と、丘の上のベンチで、夜景をけなしながら、運命的に恋に落ちたい(二番目に好きなシーン)

言うだけなら自由。